十一面観世音菩薩(鬼島十一面観音)
—–あらゆる方向を向き人々を見守る—–
観世音とは、人々の苦しみ、悲しみを聞いて下さるということ。
観世音菩薩は、私たちの近くまで下りてきて、救って下さる仏様です。
「鬼島のお観音さん」の由来
寺伝によると、妙現寺の前身は鎌倉時代の 1195年開創の真言宗寺院大善寺だったといわれています。同寺が日蓮宗に改宗して現在地に移ったのは、永生十六年のこととされています。
妙現寺の北側に、現在も観音沢という谷川が流れています。大善寺はその上流、妙現寺の西側、山腹の平地にあったそうです。そこに祀られていた十一面観音像が 1241年に山崩れによって流され地中に埋没していたが、江戸時代・元禄期(1688~1704)に道・普請の際、村人によって発見され妙現寺におろされて祀られるようになったといわれています。
制作年代は、平安初期といわれ、その技法から作者は当時、仏師として有名な「行基」と推そくされ、長い年月地中に埋もれていたと伝えられます。
本像は、最頂部から台座まで、1メートル70センチ以上あり、日本でも珍しい背の高い、完全な一木彫です。
そのお姿は右手をすんなりと伸ばして垂れ、左手を曲げています。掘り出した時に鍬が左腕にあたり血がにじんだと云われ、そのために包帯をまいてます。
霊験あらたかな「鬼島のお観音さん」として昔から多くの人々の信仰をうけています。
鬼島妙現寺のウメ(中梅)
胸高幹囲=1.6m
枝張り=四方約3m
樹高=約6m
町の文化財に指定されています。
鬼島妙現寺のイトザクラ(シダレザクラ)
胸高幹囲=2.0m
枝張り=東8.6m/西7.9m
南6.9m/北6.7m
樹高=約15m
地上4mで四方に枝を伸ばし、東に伸びた枝は長く太く、さらに三方に枝を広げた樹形は優美です。
3月下旬から4月にかけて整った枝に美しい花が咲き誇ります。
妙現寺鰐口(みょうげんじわにぐち)
妙現寺の鰐口は、寛文八年(1668年)に元東南湖村法玄寺の加賀美半之丞によって寄付されたものです。
面径27㎝、高さ6~11㎝で、十一面観世音像とともに町の有形文化財に指定されています。
年間行事
春期大祭
観音様の縁日(本来は4月18日)に開催。
三年に一度、稚児行列が行われています。
土の中にいた観音様「ふるさとやまなしの民話より」より
むかしむかし、鬼島村に働き者で心のやさしいおじいさんとおばあさんが住んでいました。二人は山を掘りおこし、粟や豆を作って暮らしていました。
ある夏のことです。いく日も雨が降り続き、収穫まぎわの粟はもちろん、畑までも流されてしまいました。雨がやみ日が照り始めたので、二人はさっそく畑へ出て、おばあさんは僅かに残った粟を集め、おじいさんは荒れた畑を元どおりにしようとしようと鍬をふるっておりました。
しばらくすると、鍬が何かにささって抜けません。おばあさんと二人で引っ張ってやっと抜きましたが、なんと、その刃先に血のようなものがついているではありませんか。
「ややっ、ち、血が」二人は驚きました。
そして夢中になってその周りを掘りました。
何時間たってやっと二人が掘り出したのは、人の形をしていましたが人ではなく洗ってみると木造のりっぱな観音様で、鍬が打ち込まれた左腕には血がにじんでいます。
二人は思わず膝をつき、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」と手を合わせておがみました。そして、おばあさん頭にかむっていた手拭で、左腕の傷をていねいにしばってあげました。
観音様は、長い間を土の中にうもれていたとみえて、とても疲れた顔をしていました。そこで、村の人たちと相談し、鬼島村で一番静かな所で休んでもらうことにしたのです。
それからというもの鬼島村には、よいことばかり続くようになりました。そして、おじいさんとおばあさんにも幸せな日々が続いたということです。
この観音様が、今の鬼島十一面観音様だと伝えられ、人々の幸せを守り続けておられます。